この年末年始、今までになく心穏やかな時間をすごしている。
わが家のお正月
ネットスーパーで予約した洋風おせち、プラスチックの鏡餅(個包装の丸餅入り)、新しい掃除機を買うだけの大掃除、大晦日の夕方に始める洗濯。
なにもかもが自分の、そして家族のやりたいようにしている。

あったからどうというものでもない、ということが判明。
元旦から始まる、隣町の民泊でのいきあたりばったりの2泊3日。
昼間は子どもが満足するまでスケート三昧。
夜はレンタル漫画で寝落ち。
夫婦の会話は朝から晩まで、どうやって会社を発展させるかの営業会議。
すべて自分が、そして家族が好きなようにできる。
12月半ば、母から届いた「お正月はどうする?」というメールに思い切って返事をしておいてよかった。
「今年は家族ですごします」
去年までの慣例
年末年始は両親とすごす。
それが私のスタンダードだった。
子どものころはもちろんのこと、仕事を始めてからも結婚してからも、自分の家や実家、あるいは外泊先で両親とすごしていた。
子どもたちの相手をしてもらえ、なおかつ炊事洗濯掃除にいたるまでやってもらえる。
典型的な実家依存。
とはいえ、ジジババだって孫とふれあい、成長を見たいのだからwin-winである。
うらやましがられる立場
私はひとりっ子である。
なんでも独り占めできる。
いつでも新しいものを買ってもらえる。
そんな「いいとこ取り」のイメージがあるひとりっ子。
きょうだいを持つ人から決まってうらやましがられるひとりっ子だが、本人たちにとっては当たり前のその境遇は感謝どころか実感すらない。
いいところを独り占めできるメリットは、よくないものがひとりに集中するというデメリットと表裏一体なのである。
親の価値観
よくないものとは、両親が言う(ような気がする)あれこれ。
彼らの価値観、彼らの理想、彼らの経験との違い。
自分の考えや生活が確立するに従って、彼らの言動に価値観の押しつけを感じるようになってきた。
ただしこれらはあくまでも私の解釈にすぎない。
押し付けられている、気がしてしまう、というだけだ。
例えばこんな
ネットスーパーで予約した洋風おせち
→ 味が濃い。手作りではない。
プラスチックの鏡餅(個包装の丸餅入り)
→ 味気ない。
新しい掃除機を買うだけの大掃除
→ 子どもに手伝わせて、大掃除の習慣を教えなければならぬ。
大晦日の夕方に始める洗濯
→ 年末のこんな時間からやることではない。
元旦から始まる、隣町の民泊でのいきあたりばったりの2泊3日
→ そんなところに泊まるとは。

「教育上いかがなものか」と言われるゲーム。
昼間は子どもが満足するまでスケート三昧。
→ 遊ばせすぎ。
夜はレンタル漫画で寝落ち。
→ 漫画だと?
夫婦の会話は朝から晩まで、どうやって会社を発展させるかの営業会議
→ 他に夫婦らしい会話はないのか。
自分の英断
あーもー、やだやだ!
最後のやつなんて私にとっては娯楽なのに、それさえも否定される(ような気がする)なんて。
【趣味は営業会議です】
7時から21時まで営業会議!という休日のすごし方
こんな解釈だらけの年末年始、すごしたくない。
母からの「お正月どうする?」という誘いをやんわりと断ったのは、単にメンドクサかったから。
でも、あのとき断って本当によかったと今になって思う。
夫の「行かなくていいの?」という気遣いも、思い切って断ってよかった。
やりたいことと自分のヘンな解釈との板挟み。
それをせずにすむ、心穏やかな連休を今回はしみじみと楽しんでいる。