まず自分。
主語は自分。
主語を自分にしていないときはロクなことにならないものだ。
相手との話合いは「いかに相手にギャフンと言わせるか」になり、その言動は攻撃と受け取られ防御と反撃を生む。
主語を自分にしないのはなぜか。
それは、発言に責任を取りたくない気持ちの現れ。
自分の解釈をあたかも世論のように装い、多数派のふりをしている。
そうすれば自分は「その他大勢」に紛れ込むことができる。
主語を自分にしていないとき、相手との話合いは「いかに相手にギャフンと言わせるか」になりがち。主語を自分にしないのは、責任を取りたくない気持ちの現れ。「あなたのためを思って」かなんかで始まる話も、掘り下げてみると本人の勝手な解釈にいきつくものである。
— よっしー@消防/防災訓練のネタ帳&ヒント集 (@ne_dsk) April 3, 2019
「あなたのためを思って」かなんかで始まる押しつけがましい話は、落ち着いて掘り下げてみるとたいていは本人の勝手な解釈にいきつく。
わが身を他人に捧げているように見えるが、その結果自分にウマ味があるからそうしているだけである。
本人の勝手な解釈もウマ味も、悪いものではない。
自ら欲していると自覚してどんどん取りに行けばいい。
それなのに、その貪欲さを認めきれずに隠そうとするからロクなことにならないのだ。
世の中は、基本的に自分のことだけ考えていれば穏便に暮らせる。
それはジコチューとかワガママとか、そういうものではない。
自分を優先するということだ。
自分にかかりっきりになってからでなければ余裕は生まれず、余裕がなければ他人を思いやることなどできない。
自分を犠牲にしてまで世話をしなければならない他人なんて、いない。
私はこう思う。
私はこう感じる。
プラスの感情もマイナスの感情も、まずは主語を自分にして処理せよ。