
そう見えてしまう写真。
言っておくけど、我われ夫婦は決してラブラブなんかではない。
それが答えだ。
失うときの恐怖
ホレただのハレただの胸きゅんだの、そういうフワフワした浮かれ気分も、最初のころは確かにあった。
出会ったときからやけに気楽な相手だったので、そのままの調子でスキスキが盛り上がって怖いくらいだった。
そう。
夫が好きすぎて怖かったのだ。
だって、あまりにも好きすぎると、それがなくなったときのギャップにダメージを受けるに決まっている。
私の浮かれ気分が落ち着いたときとか、反対に夫が私に興味をなくしたときとか、もっと確実に起こることで言えば相手が死んだときとか。
夫がいなくなるのが怖かった。
どちらが先に死ぬにしても、いずれこの夫という存在が私の目の前から消えてなくなるのはまちがいがない。
そのときにフワフワした浮かれ気分だけしか持っていなかったら、別れる瞬間のつらさはどうだろう。
そして離れてしまったあとはどうだろう。
悲しさのあまり、気が狂ってしまうんじゃないだろうか。
いつ死んでもいいよ
それに気づいてから私は覚悟した。
夫はいずれいなくなる。
いつでもそのときがきていいように、覚悟をするようにした。
夫がいなくなったそのときに、目の前の存在ではない、もっと力強いなにかを支えにしていられるようにしたい。
夫の信念とか芯とか、そこから私が学んだものとか、そういう不変のものを。
それさえ持っていれば、どんなことがあってもひとりで立っていられる。
ひとりで立っていなければラブラブだろうがスキスキだろうが、相手に依存したあげく振り回されれてしまうのだ。
自分の残り時間については覚悟できているとはまだ言えないが、夫の残り時間についてはこうして覚悟ができつつある。
夫よ、いつ死んでもいいよ。
もうひとつの大事なもの
ちょっと待て。
これって何に対しても誰に対しても同じなんじゃないだろうか。
大事なものが目の前からなくなるときの覚悟。
例えば子ども。
子どもがいついなくなってもいい覚悟でいるか?
いやいや、それはコワすぎて考えるのさえいやだ。
でもやっぱり考えてないとイカンのだろうなぁ。
自分のために。