前回までのあらすじ
夫がバカ高いセミナーに2泊3日で行くと言っています。賛成すべきでしょうか?
再び!夫がバカ高いセミナーに行くと言っています。そのセミナーは大丈夫なのでしょうか?
帰ってきたその翌日に
バカ高いセミナーから帰ってきたばかりの夫が、次のセミナー受講料を振りこもうとしている。
まだ行くつもりであるらしい。
バカ高いセミナーの受講料は、ホントにバカ高い。
私が通ったかさこ塾の受講料はコドモの小遣い並みだが、バカ高いセミナーの受講料はホントーにバカ高い。
お給料の支給総額ですか?というくらいバカ高い。
そのバカ高いセミナーから帰ってきた翌日に、夫は次のセミナーの予定を立てた。
そして受講料の振り込み手続きを私に依頼してきた。
まだ行くつもりであるらしい。
受講料がバカ高いだけじゃない!
前回と変わらず、私は、夫が行きたいと思うのならば行けばいいと思っている。
計算高い夫のことだ。そこらへんの損得勘定はすでにやってあるはず。
話はここからだ。
このバカ高いセミナーは、遠方の地で2泊3日かけてやる。
当然ながらその前後泊が必要になる。
往復の交通費と、その間の飲食代がかかる。
出費はバカ高い受講料だけではない。
そして、家とコドモの世話が私ひとりの身にのしかかる。
大人がひとりいないというのは、単純に労働力で考えても負担が大きい。
こないだは、夫不在のうちにコドモがインフルエンザになっちゃって、仕事と家とをなんとかやりくりした。ヒヤヒヤしたぞホント。
このバカ高いセミナーには、参加者同士がやけに強くつながる仕組みがあるらしい。
一緒にセミナーを受けたメンバー同士が心を開いて向き合うもんだから、本気で相手の幸せを願って相思相愛みたいなことになるらしい。
おいおい、それじゃあ私の妻としての立場がないではないか。
それでも私は、夫が行きたいと思うのならば行けばいいと思っている。
なぜなら、このバカ高いセミナーに行ったあとの夫には変化が見られるからだ。
アプローチと諦め
妻であるからには、この人の心の奥にある最後の扉を開けて、その中に入りこまねばならぬ。
そう思ってずいぶんアプローチを重ねてきた。
だけどどうもうまくいかない。
扉を開ける合言葉が違うのか、鍵が違うのか。
そもそも本人に開ける気がないのかもしれない。その扉の存在は忘れられているのかもしれない。
だったら私がいくら頑張ったところで、どうにかなるものではない。
なんかの拍子に扉が開いたらラッキー。
しだいにそう考えるようになって、扉を開ける努力をやめた。
夫は夫。私は私じゃないか。
別々の道を選択する可能性
しかし、バカ高いセミナーでナニをどうされたのか知らないが、夫の心の奥にある最後の扉に今までと違う様子が見られるようになった。
と言っても、扉が開いたわけではない。
少なくとも私にとっては開いていないし、中をうかがい知ることもできていない。
中に入るなんて、とてもとても。
だけど、扉の存在はもうごまかせないほどにハッキリしている。
すっかりわかっていると思いこんでいたものが、実は浅くて軽いものだった。まだ解明されていないものが扉の中にまだたくさんある。それが分かってしまった。
扉の向こうになにがあるのか、ひょっとしたら夫はもうそれを見たのかもしれない。
夫の持っているすべてを、私が共有することは永遠にないかもしれない。
それを夫と共有するのは妻の私ではなく、私の知らない他人かもしれない。
共有する情報の量が、私が一番多いとは限らないのではないだろうか。いや、量よりも質なのか?
そうなると、夫であること妻であること夫婦であることに、いったいなんの意味があるんだろう。
変化する夫の様子を見ながらあれこれ考えていると、ちょっと切なくなる。
ひょっとしたら別の生き方を選ぶという可能性も、あるんじゃない?
自分が分かることの素晴らしさ
それでも私は、夫がバカ高いセミナーに行きたいと思うのならば行けばいいと思っている。
だって、自分の中になにがあるのか、自分の本当の姿はどんなものなのか、自分の価値ってなんなのか、そんなことが分かり始めるなんて素晴らしいじゃないか。すてきじゃないか。
そうしたいと願いながらも叶わなかったことが現実になりつつあるのなら、私がそれを阻む理由などどこにもない。
受講料がバカ高い?
それがなにか問題でも?