卒母・西原理恵子の子育ての結論「母乳、食育は放棄。子どものためという呪縛から逃れて」
雑に言うと「子どもの命と自分のゴキゲン以外は手放せ」ということだね。
万年床でもいい
あらゆるプレッシャーでキツキツになったオカーサンがたにとって、この手の健全なおおざっぱさは救いである。
ざっくり・テキトー・だいたいでいいのだ。
掃除しなくても死なない、成績悪くても死なない、お風呂に入らなくても死なない。
それがハッキリして「私だけじゃなかった!」「ラクになった!」と肩の荷が下りるオカーサンも多いだろう。
現に私は「布団を敷くとか上げるとか、洗うとか干すとかやめて」の部分に救われた。
ここだけの話、今のわが家はほぼ万年床だ。
要するに考え方しだいなのだ。
なにを優先するか。
健康なのか成績なのか生きる力なのか英語力なのか。
子どもを育てていると、どういうわけかこれを見失ってしまう。
どうかすると周りからの視線が最優先になってしまったりする。
実家の母とか姑とか夫とか乳児検診のスタッフとかママ友とか学校の先生とかからどう見えるか。そんなことでいっぱいになってしまう。
便利で安全な社会で暮らしているせいか、命が最優先されるということを忘れてしまう。
頭を冷やして考えてみればすぐにわかるはずなのに。
手を抜いてみる
そんなときに触れる健全なおおざっぱさの感覚は実に新鮮。
「私だけじゃなかった!」「ラクになった!」
これで救われる人は幸いである。
しかし、どうかな。
それで本当に救われているだろうか。
「うどんと豆腐と餃子の中身とコロッケの中身とバナナでしのぎましたよ。
ラーメンはお湯で麺をゆすいであげると、すんげー食べた(笑)。」卒母・西原理恵子の子育ての結論「母乳、食育は放棄。子どものためという呪縛から逃れて」より
うどんと豆腐と餃子の中身とコロッケの中身とバナナを子どもに食べさせると、確かにラクだ。
だって簡単だもん。簡単すぎるもん。
だけどダメだ。
なんかダメ。
どうしてもダメ。
すっげー不安。
ホントにこれでいいの!?
うまくいかない理由
どうしてダメなのか。
なにがダメなのか。
ダメなのは自分。
優先すべきを優先すべく、それ以外のものを手放したとき、うっかり大事なものまで手放してしまった自分。
手放したのは自分のゴキゲン。
健全なおおざっぱさという概念を知ったとき、それをそのまま取り入れてしまうことがある。
それが試行錯誤のうえに編み出された秀逸な手法であっても、あくまでも他人の手法でしかない。
「とにかく手作りのものが素晴らしいという風潮を抹殺したかった。」
卒母・西原理恵子の子育ての結論「母乳、食育は放棄。子どものためという呪縛から逃れて」より
「手作りのものが素晴らしいという風潮を抹殺したかった」のは西原理恵子氏であり、自分ではない。
手作りが好き、手作りがいいと思う、手作りを食べさせたい。
だったら好きなだけ手作りすればいいのだ。
ようやく本当に「ラクになった!」。
手放してはならないもの
「自分はどうしたいか」
これを見失ってはいかん。
子どもの命を最優先にするのは言うまでもないが、それと同レベルで自分のゴキゲンも優先していなければうまくいかない。
このふたつはときに対立することもある。
そのとき両方をうまく取り入れられるように、感覚を研いでおかねばならぬ。
自分はなにでゴキゲンになるのか。
なにが満たされればゴキゲンでいられるのか。